椨屋たぶや
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夜明けの水面

本作は、椨屋に記録された類型・土地・存在を題材にした完全な創作です。実在の伝承・事件・人物とは関係ありません。AIを用いて書き、編集者が選んでいます。

女は三年ほど前から不眠に悩まされていた。忙しかった仕事が一段落した今も、目を閉じても頭の芯だけが冴えているような夜が続き、寝室で天井を見つめたまま朝を迎えることも珍しくなかった。かかりつけの医者に相談すると、薬を増やす前に生活のリズムを整えてみましょうと勧められ、思い切って明け方にまだ暗いうちの散歩を日課にすることにした。歩くのはいつも同じ道で、家から緩やかな坂を上った先にある溜め池のほとりだった。灌漑用に古くから使われている池で、夏場は蛙の声が、冬場は霜を踏む自分の足音だけが響く、静かな場所だった。散歩といっても特別なことは何もない。池の縁に少し腰掛けて、空が白むのをぼんやり眺め、体が冷えてきたら家に戻る。最初のうちは義務のようだったその習慣も、続けるうちに少しずつ、寝つけない夜を埋め合わせる大切な時間に変わっていった。

その日は季節外れに霧が濃く、池の水面がほとんど見えないほどだった。女がいつもの場所に座っていると、霧の切れ間から何か薄い布のようなものがひらひらと舞い降り、水面に触れて静かに沈んでいくのが見えた。羽衣というには薄すぎ、霧そのものが形を持ったかのような、頼りない布地だった。同時に、水音とも息づかいともつかない気配が、対岸のあたりで動いた。目を凝らしても霧に阻まれ、人の形をしているようにも、ただの水鳥のようにも見える。しばらくの間、その気配は水を浴びるような、あるいは何かを探すような動きを繰り返し、やがてふっと女のほうへ顔を向けたように感じられた。逃げようとも近づこうとも思わず、女はただじっと座ったまま、その気配が霧の奥へゆっくりと遠ざかっていくのを見送った。

その朝を境に、女の中で何かが少しずつ変わっていった。目覚まし時計を使わなくても、必ず同じ時刻に、体の内側から呼ばれるように目が覚めるようになった。以前は面倒に感じていた早朝の散歩が、いつしか一日のうちで最も欠かせない時間になり、天気予報よりも先に、空の色や風の匂いで雨が近いことがわかるようになった。友人からは「なんだか雰囲気が変わったね」「前より静かになった」と言われることが増えたが、女自身、何がどう変わったのかをうまく説明できなかった。

不眠は、いつの間にか気にならなくなっていた。ただ、眠りが浅くなったというより、朝のほうがずっと早く女を迎えに来るようになった、というほうが近い気がしている。医者にはもう通っていない。薬に頼らずとも眠れているのだから良いことのはずだが、家族と旅行に出て、いつもの池に行けない朝が続くと、女は理由の分からない落ち着かなさに苛まれるようになった。

あの朝以来、女は二度と同じ気配を池で見ていない。それでも毎朝、同じ時刻に同じ場所へ足が向く。それが失ったものなのか、代わりに得たものなのか、女自身にもまだよくわからないままである。ただ一つ確かなのは、あの霧の朝を境に、自分が以前とは少し違う人間になった、ということだけだった。

この物語が題材にした記録
土地:紫波郡 類型:神霊・信仰 現れるもの:天女